2006年02月08日

映画の力


反戦映画として有名な『キリング・フィールド』の脚本を執筆したブルース・ロビンソンは、映画という媒体がそのメッセージ性を通じて世の中を変えることは全くない、と断言している。
これが、例えばハリウッドの娯楽大作ばかりを撮っている人間の台詞だとしたら、意外なことは何もない。しかし、あのブルース・ロビンソンの発言となれば、これは随分と重みが増してくるだろう。何しろ、『キリング・フィールド』の脚本家だ。この映画タイトルでちょっとネット検索をかけてみれば、「見ることに意義がある」「知ることに意義がある」という感想に溢れている。
ところが、ブルース・ロビンソンはこうした賞賛に対して完全に悲観的な立場を取っている。それどころか、ネット上の感想・意見とは全然違った見解を取っているのだ。
おかげで、例えば「アメリカ人記者シャンバーグとカンボジア人ブランの友情は偽善じゃないか」というような意見を目にするたびに、いやちょっと待ってそこはブルース・ロビンソン本人が言ってるんだけどね!と反論したくて堪らなくなる。
違うんだ、彼のインタビュー集を読むと、色々事情があったって分かるんだよー(笑)! 
というわけなので、ちょっと本腰を入れて『キリング・フィールド』制作の裏側について書いてみる。

『キリング・フィールド』はアメリカ人記者シャンバーグの短い記事を元に膨らませた物語だ。シャンバーグが友人にしてカンボジア時代のアシスタントであるディス・ブランと別れ別れになった後も探し続け、内戦終了後に再会したという物語に目をつけたプロデューサーのデイヴィッド・パットナムが、ブルース・ロビンソンに脚本化を依頼した。
これまでにも数度パットナムと組んで仕事をしてきたブルース・ロビンソンは(しかし、映画化までこぎつけた作品は0だった)、精力的にこの仕事に取り組む。というか、ロビンソンは偏執的なくらいに下調べをする人なのだ……。
当時、カンボジアに入国することは出来なかったから、ブルース・ロビンソンはタイの国境沿いまで行っている。カンボジアから川を伝って流れてくる家財を見て、多少なりとも空気を掴んだのだとか。

そういう人物だから、当時ロンドン住まいの彼は勿論アメリカにも行っている。シャンバーグとブランに会って話をする為だ。その上で彼が出した結論というのが、この二人は友達でも何でもないというものだったらしい。
何しろブランは、「シャンバーグは気に入らないことがあると自分を酷く殴った」とフランクに話しているのだ。友達あるいは兄弟だったら殴らないよなあ。カンボジア人とアメリカ人という立場の違いを前提とした搾取の関係がそこにあったことは容易に想像が出来る。
そこでブルース・ロビンソンはシャンバーグに直接電話をして、「あんたの言う話は信じられない。信じない」と断言したらしい。それに対してシャンバーグは「君は自分の思うように書けば良い」と返事したそうだ。なかなか潔い。

こうした経緯を知ってから映画を見直してみると、実は注意深く作り上げられていることがわかる。何しろ、相手に対するそれなりの愛着を見せているのはブランの方で、シャンバーグは台詞としてはブランに対する直接的な思いやりを示したものは少ないのだ。
そして、ブランとシャンバーグの関係がカンボジアとアメリカの力関係の差異を反映しているとすれば、物語の後半、たった一人で取り残されたブランの姿がクローズアップされていくことは、なかなかにフェアな理解ではないだろうか。
そんなわけで、ロビンソンは嘘は出来るだけつかないように、なおかつ映画として見れるだけの代物として『キリング・フィールド』の脚本を書いたのだった。


さて、そんな感じで脚本家人生を送ってきたロビンソンは、映画は娯楽でしかないと断言している。(ちなみに彼は、『キリング・フィールド』の後に原爆を作ったオッペンハイマーに関する脚本を書いている)
どんなに入念な下調べをして、悲惨な現実を知ったとしても、それが画面のこちら側の私たちを動かすことは少ない。例えばクメール・ルージュの蛮行を知った私たちが、どんなアクションを起こすだろうか。たいていの場合、私たちは「感動した」と言い、「知ることに意義がある」と言って、それ以上は何もしない。
違う。映画は第一義的に娯楽として存在するのだ。
……というのが彼の主張である。本当だろうか。本当に『キリング・フィールド』はそれだけの作品なのだろうか。あるいは、『ロード・オブ・ウォー』は、『ホテル・ルワンダ』は、観ることに意義がある映画じゃないんだろうか。

思うに、「映画に世界を変える力はない」と断じることは、作り手にとって必要な態度なのだ。自分の作ったものが何らかの形で地球上の紛争を止める意義があったと思っている作り手がいるとすれば、こりゃあ何だか鼻持ちならない。これは友達の台詞だけれど、そんなのは「絶望が足りない」。
そして、観客としては「知ることに意義がある」なんていうのは気休めだ。そう口にしていれば、私たちは何事もなく日常を送っていける。映画を観ただけでも、自分が少し世界情勢に興味があるような気がして、自己満足も手に入れられる。
知るだけで自分がちょっと良い人間になった気がするとしたら、それは相当の自己欺瞞だなあ…という気がする。そういう意味で、私としては「映画に世界を変える力なんてない」と言っておきたいような気がするのだった。

ちなみに、映画の最後に流れるジョン・レノンの『イマジン』について、ブルース・ロビンソンは最後まで反対していたらしい。それまで政治家たちの愚かな決断について2時間に渡って物語った挙句、その全てを終わらせる為にジョン・レノンを持ってくるなんておかしい、ということだそうだ。(つまり、エモーショナルなものを持ってくれば政治的な過ちが解決されるという訳ではないってことだろう)
ところが監督のローランド・ジョフィは、映画の終わりの「イマジン」使用について、色々と理由をつけて説明している。
「国境のない世界を想像してご覧とイマジンは歌っているが、クメール・ルージュはその宗教も財産もないリセットされた世界を生み出そうとしてカンボジアで虐殺が起きた」
というようなことだ。
ブルース・ロビンソンは、彼の発言をあっさりと切り捨てている。
「そんなのは後付けの理屈で、6−70年代の反戦主義とクメール・ルージュを結びつけるなんて飛躍も良いところだ。映画を作っている最中に、ローランドがそこまで考えてイマジンを持ってきたとは思えないね」
そうかもしれない。立派な理屈や高邁な思想は概して後から生まれてきて、自分を補強するものだから。

どうやら、正義というのは随分とあやふやなものらしいな……というのが『キリング・フィールド』の撮影に関する一連のインタビューを読んだ感想である。それで、作品に対する感動が減るものでは、少しもないのだけれども。

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posted by heathertop at 14:59| Comment(2) | TrackBack(0) | Essay | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めまして。
キリング・フィールドについて書かれておられたので
見せて頂きました。
この映画には、かなりの感銘を受けた者です。

当時のカンボジアの過酷な状況がリアルに描かれた
ノンフィクションの傑作だと思ってましたが、
このような裏話があるとは知りませんでした。
ブランとシャンバーグの間に
実際は友情が存在しなかったとは・・・。

イマジンを使った監督の意見は、確かにこじつけですね。
あの歌が、この映画に合わなかったのはそのとおりで
観た当時も映画の内容からすると、ちょっと安易な曲を使っているなと感じてました。

ブルース・ロビンソンについては、この映画以外殆ど知りませんが、これからの展開を楽しみにしています。
Posted by 煙猫 at 2006年02月10日 00:57
煙猫さん、こんにちわ! コメントをありがとうございます。

『キリング・フィールド』は、当時のカンボジアの政治的な状況を描いているという意味ではノンフィクションですが、物語としてはかなり創作が入っているそうです。(例えばパスポート偽造のエピソードは、ロビンソンが考え付いたネタだそう)
彼のインタビューを読む限り、西欧人対アジア人の力関係の差を前提にした搾取の問題を抜きにして、ブランとシャンバーグの関係を理解することは出来ないでしょうね。

それでも、あの映画をフィクションとして娯楽として理解する限り、やっぱり傑作なんだと思います。ただ、あの映画を作った側が、その功績や正義を誇るのがおかしいというだけで。

作り手としての冷静さって大事なことだと思うんですが、その意味でブルース・ロビンソンは面白いのです。これからもあれこれ取り上げていくと思いますので、どうぞ宜しくお願いします。
Posted by heathertop at 2006年02月10日 02:44
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